ラオスが新年を迎えたところで、改めてラオスでの活動の原点を振り返ってみました

シルクから始まった

色々なことに疑問を持つようになったのはシルクから。丸杉は呉服屋でシルクにはたくさん触れてきたのですが、同じシルクでも着心地が違うのはなぜだ!?というところからスタートします。
この話はとっても長くなるので、詳しくは割愛しますが、結論は「生の繭」を「手でゆっくりひいた」シルクが最も着心地が良く、その性能を最大限に生かしてくれるということでした。

だったら他のシルクは?というと、ほとんどは乾繭という熱風乾燥。そしてそこから機械引きで潤滑油として油をつけていきます。熱でシルクはタンパク変性を起こし、強いテンションで糸はさらに変形、油をつけることでシルクがコーティングされてしまうこともあります。

もちろん生の手引きなんてしてたら、とてもとても時間と手間とロスが多くて、ただでさえ高いシルクはその何倍かの値段になってしまうはずです。さらにその作り方ではなかなか規格品にはなってかないので、今の日本の成長を支えた産業にはならなかったでしょう。(シルクが日本の一大産業だったのはご存知でしょうか?)

だからどちらがいいという話ではなく、物が作られる過程をよく観察すると「○○だからいい」という単純な話ではないということがわかってきたのです。そしてその工程を掘り下げていくと思いもかけないものが見つかってくるものです。

繭は何からできているか?

先ほどはシルクができるまでの工程を見てきましたが、もう少し広い視野で見てみましょう。繭になる前、養蚕の現場はどうでしょう。
お蚕さんは農薬を使った桑では病気になって育ちません。

だから無農薬の桑園でしか育たないんです。
これはよかった!

・・・と早とちりしていませんか?

桑を育てるにはたくさんの肥料を必要としています。
で、その肥料って何???

とまた疑問が出てくるわけです。
私は学者じゃないし農業従事者ではないので、なぜ肥料が必要かわかりませんでした。

窒素リン酸カリ。こんな基本も知らないくらいだったんですが、なんとなく知らないものを使うことに抵抗があったんです。
有機肥料ならいいんじゃないか?
とも思ったのですが、
「その鶏糞・牛糞の鶏や牛が何を食べたかわかる?」
との質問を受け、ハッとさせられたのを覚えています。

脳裏によぎったのは動くことのできないくらい敷き詰められた鶏舎でした。

お蚕さんは桑を食べて育ちます。
その桑は土から養分をもらって育ちます。
その土の中には微生物がたくさんいて、桑の栄養を空気から補給しています。そうやって共生して生きているんです。

しかし、ほとんどの畑はそうなっていません。
なぜか?
は少し調べればわかります。

何はともあれ、繭一つ作るにも、自然やその他の環境が複雑に絡み合っているということは確かなようです。

(中略)

ということもあってピュアな土地を目掛けてラオスにたどり着いたのです。

循環と共生

シルクから始まった物語は(強引な展開で)ラオスにまでたどり着きました。
そんなラオスでは完全自然栽培で桑を育てています。

なぜそれが可能か?

実はここではよく鳴る雷や多孔質の火山岩とも関係していたりするんじゃないかと最近思っているのですが、その辺りはまたいつか。

さて、繭一つとってもその他多くの要因が複雑に絡み合って一つのものができるということもわかってきました。繭と微生物、土に空気。一見関係のなさそうなものも深く関わってきていたのです。

さらに深く勉強していくと、最近では人間の臓器同士がメッセージ物質でコミュニケーションしているのが分かってきたように、微生物がメッセージ物質をやりあっていたり、植物どうしがコミュニケーションをとっていたりすることが分かってきて、まだまだ私たちの知り得ない世界があるんだと実感しています。

はっきり言って、生物同士は私たちでは追い切れないくらい多くのメッセージをやりとりして生きているんです。

でも、そんなところまで考えれない?
そう。考えれません。
量子コンピューターでも無理だと思ってます。

だから人がもともと持っていた感じる力が必要なのだと思います。

 

手を加えない力

そんな時、ラオスの農法と植物に出会いました。
「雨の時期に植えるだけ」
の農法は正直最初は、そんなあほな!という思いでした。
バナナしかり、パパイヤしかり、トウモロコシ しかり。
パッションフルーツも唐辛子もニンニクだって、生姜にツルムラサキなんて植物も雨の時期に植えるだけ。
土を耕さない、作らないこの農法は私には衝撃でした。

しかしそれで見事に実るのです。
しかも私が感じる上では、通常の野菜より非常にパワーを持ったまま。
確かに糖度は高くありません。しかし、とっても美味いんです。
それだけで何個分かの栄養を賄ってくれるような力を感じます。

これだけで何個か記事が書けそうな内容ですが、ここでは
・土を作らずに植物は育つし、手を加え無い方が強い実になる。
・それを食べた方が私たちに本来の力を発揮してくれる
ことが多いということがわかって貰えばと思います。

さらにもっと衝撃だったのが、村の人はそこらの草や虫を食べるんです。
あの草、この草、どの草。
あの虫、この虫、その虫。
どれも食用。
気が向いた時に気が向いた草や虫を食べる。

彼らはまさに自然とともに生きていて、自分が不足しているものを「感じる力」があるようでした。

ますます人本来の力に興味が湧いてきます。
自然本来の力を大切に感じます。

一方で、私たちが昔信じてきた分析されたものは、その断片でしかないと感じるようになりました。
科学者の分析する能力は確かにすごいです。
こんなことまでわかるんだ!
と尊敬の念もあります。もちろん私も色々と勉強しています。

しかし、私たちが分析できるものはたかが知れているとも思います。小さく切っていくのはできるけど、それらが複雑に絡まりあったときの量子的な分析はきっとできないだろうな、と。

何もしなければ自然は何もしてくれない

さて、ここまでくると自然の力がそんなにすごいなら、何もしないのがいいじゃないか?
なんて思ってしまうかもしれません。
が、そんな都合いのいいことはないんです。
「共生」
とはそういうことで、自然は放っておくと自然の都合のいいように進んでいきます。それは人間にとっては非常に扱いづらいものになるんです。
だから蜂が蜜を取り受粉を助けるように、根粒菌が窒素を固定して植物の成長を助けるように、人もまた少し手を入れることで自然の恵みを受け取ることができるのです。
自然がみんな仲良しなんてのは幻想で、それぞれ生き抜くために自分に合う生き物と共生を選んで、常に領土を取り合っているのです。
だから私たちも少し手を加え、自分に有益な環境を整えることは大事なのです。

(だからと言って、人間に有益でない生物が不要かというとそういうわけでもないのが面白いところ)

なぜ森か?

さて、ここまできたら森を作る意味が少し分かってもらえるかもしれません。
私たちがここで「森を!」っていうと村の人をサポートするって思われがちですが、実は違います。
持続可能な発展目標?そんなものとも違います。
そんな自己犠牲の愛ではないんです。

全てが自分たちに降りかかってくる。と思っているからなんです。

例えば森が開梱されそこに薬がまかれると、土が川に流れ、その水が海に流れ、海の微生物が減少し、雨となり自分たちにかえってくる。土がどんどんだめになり食べるものが育たなくなる。化学肥料にたより・・・と悪い循環が始まる。

そうすると村の人も幸せでなくなります。
そして村の人が幸せでないと、私たちも幸せでないし、お蚕さんも元気に育たないからなんです。

逆に環境が豊かだと、自分たちにも村の人にもいいものがかえってきて、いい循環が生まれると思っています。そして私たちは自然の力で健康に生活ができるのです。

そんなばかな
と思われるかもしれません。

しかし確実にそれらは色々なところで影響しあっています。
だから私たちは森を大事にしたいし、大事にすることで私たちも村人もまたその恵みを受けれるものだと思っています。

簡単にいうと、自分の体をいたわるのと同じです。
不摂生してたらいつか痛いしっぺがえしを食いますよね。
それと同じなんです。

森を大事するということはそういうことです。
誰かのためではなく、自分たちのためなんです。

それも単一な森ではなく、多様性のある豊かな森。
私たちもそこから食べ物をいただける森。
土に触れると悪いものを抜いてくれる森。

そんな循環する共生の森ができれば他のこともうまくいく。

そう思えるのです。

循環と共生

さて、そんなわけで私たちが大切にしていること。
少しはわかっていただけたでしょうか?
文字にすると伝わりにくいところとか、変に捉えられることもあるので、難しいですね。話始めると尽きないくらい深堀はできるのですが、その辺はまた追々徐々にと言ったところでしょうか。

複雑系の中で生きる私たちは、意識せずとも非常に多くの生命と共に生きています。自分一人で生きているつもりが、何兆個もの微生物に生かされています。共生と言わずとも共生しているのが生命なのです

だから隣人だけでなく隣動物、隣植物、隣土、隣微生物、隣森を自分のことと思って接していくのが、大切なのだと思います。そしてそこに豊かな循環が生まれるのだと思っています。

感謝

最後になったけれど、その根底で感じてること。それは感謝の気持ち。自然に触れていると、その脅威を感じる(決して自然はのどかで優しいわけではないですよ!)一方で、この土に、微生物に植物に生かされてると感謝の気持ちが生まれます。
だからと言って、食べないわけではありません。
手を加えないわけではなりません。
敬いすぎるのではなく、自然のこととして、循環できる範囲の中で自然をいただくことが大切なのだと思います。